看護についておもうところ

更新日:2020年11月16日 ページ番号:0000070

【看護業界用語の七不思議】とひそかに名付けていることなど

<対象>・・・・看護の対象が人間(集団)であることに疑いはないが、具体的に個々の患者を想定している文中で「対象」と言ったのでは、モノを相手にしているような印象を与える、と思うのは自分だけだろうか?

<患者様>・・・・(1)看護研究の計画書や学術的な文章で「様」をつける必要があるのか?経営論の教科書で「顧客様」とは書かないだろう。(2)「お客様」という表現は、「距離を置いて敬意を表する」日本語であり、距離感や役割(何かを提供する側とされる側の)を固定する機能がある。「とりあえず敬語になるらしいからお客様と呼んでおこう」という、おざなりな表現のこともある。だが、親しみを込めて「患者さん」と呼んだ方が、ずっと好ましい場面もあるだろう。精神科には「治療同盟」という言い方があるように、「患者と看護者が手を組んで病や問題に立ち向かおう」とする時、「患者様」と読んで距離を置くのはまずいと思う。

<実習施設>・・・・日常語では、施設というと建物などのハードのことを言う。実習の行き先が病院や老健ならば違和感ないが、訪問看護ステーションでは違和感があり、ましてや(株)××健康管理センターで実習させていただく場合、(株)××を「実習施設」と呼ぶのはオカシイ?正確には実習機関と言うべきなのだろうか?

<介入>・・・・精神保健では危機介入という用語もあって、介入というとかなり強力なワザを連想する。逆に言うと、緊急事態でなければめったにすることではない。看護介入という用語は乱発されているが、患者は自分の生活や人生に介入されたらウレシクナイだろう。どうして平気でこんな言葉を使えるのか不思議だ。精神看護では特に「治療者側が一方的・父権的に介入するのでなく、当事者と話し合いながら、当事者が自己決定しながら回復を目指すことの方が、真の意味で”治療的”である」と教えている。

<実施>・・・・この単語の乱発も気になることもある。中には「看護技術の実施」などという訳のわからない日本語もある(技術は実施するものじゃなく、適用するもの?)。看護ではdoingだけじゃなくbeingの世界への眼差しを忘れてはならない、と緩和ケアでは言われるのだけど。それとも単に、日本語が下手なだけなのか?

どういう教育をしたいのか

 大学をサービス業と考えれば、顧客(=学生?保護者?)の満足度が何より重要だ。大学を製造業と考えれば、出荷時の品質が問われ、そのためにはまず原材料の仕入れ(=入試)が課題だろう。しかし、大学を共同体と考え、教職員も学部生も院生も共にその構成員だ(教員も学生と共に学ぶ)という思想もある。以上三つの立場は必ずしも排反でなく、ある程度まで並立し得る。

 名工大の友人から教わったルネ・シマー(モントリオール大学前学長)の言葉「大学で学ぶ学士号を取得して社会人となる人材が身につけているべきこと6ヶ条」~1)専攻分野での基本原理や方法論を身につけていること;2)専攻分野の確かな知識を持つと同時に、その限界を知り、他の分野に対して心が開かれていること;3)批判精神を十分に発達させていること;4)自分一人で学習でき、知識を常に拡大深化できること;5)正しく効果的に自分の考えを伝えられること;6)職業に対する倫理観を持つこと。

 学部教育ではこの6ヶ条を目指しつつ、学生に「この大学に来て良かった」と思ってもらいたいと思う。「学生に何を提供するか」という課題以前に、「心の健康に関わる仕事をしてきた自分がどのように幸福か」を見てもらえるような“生き生きした自分”であり続けたいと願う。それは、自分の弱さや欠けているところを学生に見られても恐れない、正直な自分でありたいということでもある。そうでなければ、学生に対して防衛的になり、学生の欠点ばかりあげつらったり、攻撃的に叱責したり、というようになりやすいからだ。educateの原義は、学生の良いところを伸ばす、可能性を引き出すということだという。“学生”を“患者”などと置き換えれば看護の実践と同じだろう。

健康な看護学

 どのような専門領域であれ、閉鎖的・排他的になると衰退する。日本の看護学は、下手をするとそうなってしまいかねない危険な位置から出発していると思う。

 ある有名な看護学の先生は「看護学は医学や保健学や福祉学を統括する上位概念だ」と発言した。またある看護学教授は、「世の中には医者と看護職の二種類の人間しかいない」という意味の発言をした(これ以外は・・・人間ではないのか?)。こういう狭量な発言が多いと世の中から反発を受け、看護学は相手にされなくなるかもしれない。

 冷静に考えれば、医学・福祉学・心理学などと看護学との関係は「それぞれ独立した峰だが、裾野を共有している」(保健学の意味するところは意見が分かれるようだが、私見では看護学や医学よりも広範な領域を指して「健康に関係する学問」という意味で使いたい~ただし保健学科と称している多くの学科が「全体として保健学をやっている」とは思えない)。すると、共有している裾野を「あれも、これも、みぃんな私たち看護学の領土」と強弁して囲い込むのも、「あれは看護じゃない、これも看護じゃない、そういうことをしているあなた方は看護の仲間じゃない、私たちの独自性は別の高嶺にある」と叫んで排除するのも、共に変だということになる。

 「疾患を持つ人への援助だけでなく、疾病の予防や健康増進も、看護の仕事に含まれる」という主張は正しい。しかし、言葉足らずで「疾病予防や健康増進は看護学に含まれる」と言ってしまうと、看護学以外の立場から疾病予防や健康増進のために働いている人たちは、侵略者から突然「主権はこちらにある」と宣言されたような驚きや怒りを覚える。これではケンカを売っているようなものだ。「地域看護」という単語も、看護業界以外の人には通じにくい(看護職も他の専門職も一緒になって「地域保健」という仕事をやっている、と考える人がほとんど)。さらに、「看護学とは何か」というアイデンティティの不安から生じる防衛機制もありそうだ。日本の看護学には「ある種の医学に対するアンチテーゼ」としての性格を持つ歴史事情がある。だがそろそろ、もっと健康的な自信に裏付けられて発言・行動する必要がありそうだ。

 ペプロウの師サリヴァンの対人関係論によれば「隣人に対する見方が現実的で、過去にとらわれすぎず、隣人と自分との間にいま何が起こっているかをわきまえ知るような“健康なパーソナリティ”は、隣人との間に継続的満足・安定を獲得する」。“パーソナリティ”を“学問”に置き換えたとき、これに当てはまる看護学になるためにはどうすればよいのだろうか?